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『アズレン』シナジー効果と史実を紐解く(3)戦艦三笠が歩んだ歴史:前編

おもに第二次世界大戦時の連合国及び枢軸国に所属していた艦船をモデルとしている艦が活躍する、艦船擬人化シューティングRPG『アズールレーン』(以下『アズレン』)。この『アズレン』に、時代を超えた伝説が降臨した。かつて連合艦隊旗艦として北の大国と戦い勝利し、凛然たる栄光を日本にもたらした戦艦三笠である。この記事では三笠が保有する2種類のシナジースキルと、彼女が史実で歩んだ歴史の一部を紹介させてもらおうと思う。

▲『アズレン』世界に降臨した伝説の戦艦・三笠

三笠のスキル「丁字戦法」と「新生連合艦隊旗艦」

スキル「丁字戦法」は、自身の砲撃時に8秒間、味方の巡洋戦艦及び戦艦の与ダメージをLV1で5%、LV10で20%増加させる効果を持つ。スキル発動率はLV1で30%、LV10で60%となっている。

主力としては空母を運用する傾向が強い『アズレン』では、現状あまり有効なスキルとは言えないが、セイレーン側勢力として登場している強力な重桜戦艦たちが今後実装される可能性もある。その時に備え、スキル育成をしておくという選択肢もあるだろう。


▲現在はセイレーン勢力の一員として登場している戦艦ナガト(左)。いつの日か、重桜陣営・戦艦長門として登場する日が来るのだろうか。

もう1つのスキル「新生連合艦隊旗艦」が、現状での三笠の主力スキルとなっている。このスキルは三笠を旗艦として重桜陣営の艦と同時に出撃した場合、LV1で火力及び装填値を5%アップ。LV10で20%アップさせる効果を持つ。重桜艦中心の艦隊を編成する場合、極めて重要なスキルと言えるだろう。

とくに重桜艦には強力な航空母艦が多数存在しているため、航空攻撃のリチャージ速度上昇は、大きな戦力強化となる。また前衛には愛宕・高尾・摩耶などの重巡洋艦を組みこむことにより、火力アップ効果を有効に使えるだろう。

ただ残念なのは、雷装値に対する強化はないため、夕立・綾波などの強力な重桜駆逐艦の戦闘力を有効に生かせないことだ。他の艦が保有している雷装値アップスキルとの組み合わせによりこの点を補強すれば、三笠の有効度は一層高まると思われる。


▲『新生連合艦隊旗艦』他、重桜艦のスキル発動。現状では重桜陣営の雷装値アップスキルは駆逐艦が保有していることが多いため、火力アップ効果を有効に使うことは難しい。火力が高く、なおかつ雷装値アップスキルを保有する前衛艦の実装が望まれる。

三笠の入手方法

2017年11月23日から12月7日にかけて開催されたイベント「軍神の帰還」において先行実装され、建造が可能となっていたが、現在は入手不可能となっている。いずれ来るであろう正式実装を待っていてほしい。

また、同イベントで実装された特殊設備『Z旗』を三笠が装備すると、戦闘開始と同時に『Zの正義』スキルが発動する。三笠以外の艦に装備させても発動しないので注意しよう。

スキル効果ははっきりと明言されてはいないが、射撃ダメージが若干アップしていることが確認されている。


▲再び三笠の入手が可能になるのはいつだろうか。その日が1日も早く来ることを願っている

 

戦艦三笠の誕生

『アズレン』に登場する三笠のモデルは、旧大日本帝国に所属していた敷島級戦艦四番艦、「三笠」だ。

1894年から1895年にかけて行なわれた日清戦争で日本は勝利し、多額の賠償金と朝鮮半島北西部にある遼東半島を獲得した。しかし当時、清国内での利権確保を進めていた列強諸国にとって、日本が清国の領土を獲得することは脅威であり、また渤海の出入り口にある遼東半島を日本が保持することは、軍事、経済面において見過ごすことのできない問題であった。

そこでロシア・ドイツ・フランスの三国は共同して日本に圧力をかけ、遼東半島を放棄させた。これを三国干渉と言う。

その後、遼東半島は南下してきたロシアが占有し、実効支配を受けることとなる。さらに旅順を租借地として獲得したロシアはシベリア鉄道を引き、旅順港を整備して艦隊を配備。強大な旅順要塞をも築き上げ、極東に対する影響力を強めていった。

このロシアの動きに対抗すべく日本が策定したのが、戦艦六隻・装甲巡洋艦六隻を建造するという軍備増強計画「六六艦隊計画」であり、敷島型戦艦「敷島」「朝日」「初瀬」そして「三笠」の四隻が、この計画に基づきイギリスのヴィッカース社に発注された(あとの二隻の戦艦は富士型戦艦「富士」と「八島」)。

連合艦隊旗艦 三笠

1899年(明治32年)1月24日に起工した三笠は、1900年(明治33年)11月8日に進水。その後、公試を行った後に日本に回航され、横須賀港に到着したのは1902年5月18日。翌1903年(明治36年)12月28日に第一から第三までの三個艦隊で編成されていた帝国海軍艦隊の内、第一艦隊と第二艦隊をもって編成された連合艦隊の旗艦となる(後に第三艦隊も編入)。日露戦争開戦の、わずか二か月半前のことだった。

この際に連合艦隊司令官へと就任したのが、 後に日本海海戦を勝利に導き「 東洋のネルソン 」と謳われた、東郷平八郎中将である。

何故三笠が旗艦に選ばれたのか理由には諸説あるが、「敷島」「朝日」「初瀬」はいずれも装甲にハーベイ・ニッケル鋼板を使用しているが、建造が一番後になった「三笠」は、より防御性能が高いクルップ・セメントクロムニッケル鋼を使用している。旗艦は集中攻撃を受ける可能性が高いため、「三笠」に白羽の矢が立ったようだ。

 

▲東郷平八郎連合艦隊司令長官の銅像。背後に見えるのは記念艦「三笠」

 

旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)との戦い

戦争回避の様々な外交努力も実らず、1904年(明治37年)2月6日、日本はロシアに対し国交断絶を通告。2月8日に行なわれた仁川沖海戦及び旅順口への奇襲攻撃をもって、 両国は戦争状態へと突入する。

帝国海軍は旅順艦隊の殲滅を企図していたが、太平洋艦隊はロシア本国からの増援を期待し、砲台に守られている旅順港内部での待機を選択する。帝国海軍は水雷艇による奇襲や機雷の敷設によって対抗するが決定的な打撃を与えるには至らなかった。

そこで逆に旅順艦隊を旅順に閉じ込めるために、船を沈めて港を閉鎖する旅順港閉塞作戦を実行するが、3度にわたる閉塞作戦はことごとく失敗してしまう。5月15日には閉塞作戦に従事していた敷島級戦艦三番艦「初瀬」がロシア軍の機雷により沈没。「三笠」は早くも姉妹艦を失ってしまうこととなった。


▲戦艦「初瀬」の勇姿。彼女は竣工からわずか4年で失われることとなった。(画像はWikipediaより)

こうして手詰まりとなった戦況を打開したのは、帝国海軍ではなく陸軍だった。旅順要塞を攻撃していた陸軍は、その過程で確保した大孤山から旅順港に篭る旅順艦隊を砲撃。旅順艦隊はウラジオストックへの脱出を図るが、待ち構えていた連合艦隊はこれを見逃さず、8月10日に黄海海戦が勃発する。

この戦いで「三笠」が放った砲弾が旅順艦隊旗艦戦艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋付近に命中。旅順艦隊司令長官ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将を戦死させる。 更に司令塔にも直撃弾を与え、操舵手を戦死させる。ロシア側にとって運が悪いことに、操舵手が舵を左側に巻き込んで倒れたため、「ツェサレーヴィチ」は急速に左側に転舵し、自軍の艦隊に突入してしまう。結果戦列が崩壊し、勝敗は決した。

大戦果を挙げた「三笠」だったが、旗艦である「三笠」には敵の砲撃が集中したため、無傷とはいかなかった。艦橋では伊地知彦次郎艦長が被弾。艦全体では33名の戦死者と83名の負傷者を出した。また後部主砲の砲身内で砲弾が爆発するという事故が発生している。

バルチック艦隊

旅順艦隊が苦戦していることを知ったロシアは、増援としてロジェストウエンスキー中将を指揮官とする第二太平洋艦隊を編成。1904年(明治37年)の10月15日、バルト海のリバウ港を出港した。ロシア東端の港、ウラジオストックを目指したが、大型艦はスエズ運河を通れないという事情もあり、小型艦はスエズ運河を通り、大型艦はアフリカの喜望峰回りルートを使って東側へと抜け、マダガスカルで合流した。

その後、旅順艦隊が壊滅したことを知ったロシア政府は、更に旧式艦を基幹とする第三太平洋艦隊を編成し、1905年(明治38年)2月15日に進発させた。第二太平洋艦隊と第三太平洋艦隊はベトナムのカムラン湾で合流。この二個艦隊こそが、日露戦争においてバルチック艦隊と呼ばれる、言わばロシア版の連合艦隊である。


▲バルチック艦隊旗艦を務めた戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」。司令官であるジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストウエンスキー中将が乗艦していた。(画像はWikipediaより)

この時点でのバルチック艦隊は戦艦8隻、巡洋艦6隻を含む強大な艦隊ではあったのだが、日英同盟により、英国が支配する港での補給が思うようにできなかったことが深刻な打撃となっていた。長期間の航海による船員の疲労と新鮮な野菜不足により発生した壊血病。良質の石炭を入手できず、船底につい牡蠣殻を掃除することもかなわず船速は大きく低下した。またボイラーに真水を使う余裕もなく、海水で代用したために塩が大量に付着し出力の低下を招いていた。

こうした不利な条件を抱えたまま戦場へ乗りださなければならなかったことが、戦局へ大きな影響を与えることとなった。

日本海海戦

バルチック艦隊が日本に接近しつつあったころ、連合艦隊は旅順艦隊との戦いで負った損害を癒し、再訓練を行なっていた。

1905年(明治38年)5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」の通報によりバルチック艦隊の接近を知った連合艦隊はただちに出港。「三笠」を先頭に、対馬海峡を抜けてウラジオストックを目指すバルチック艦隊に立ちふさがる形で迎撃態勢を整えた。

13時39分。連合艦隊はバルチック艦隊を視認。13時55分にはZ旗を掲揚する。艦隊が掲げる旗にはそれぞれ意味が割り当てられているが、このときZ旗には「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。

14時5分。急速に接近してくるロシア艦隊を前に、東郷司令長官は左大回頭を指示。敵の眼前で船の弱点とされる横腹を晒すという大胆とも無謀とも言えるこの回頭こそが後の世に言う東郷ターンである。

バルチック艦隊もこの動きに対応し、連合艦隊の先頭を務める「三笠」に集中砲撃を加える。この砲撃に耐えた「三笠」を含む連合艦隊第1戦隊は、14時15分に砲撃を開始。バルチック艦隊の先頭に位置する第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスラーヴィア」に集中砲撃を浴びせる。 「三笠」は「クニャージ・スヴォーロフ」に砲撃を行ない、第4射目を司令塔に命中させて艦首脳部に大打撃を与えるという戦果を挙げた。

14時50分には火災を起こした「クニャージ・スヴォーロフ」「オスラーヴィア」は戦線を離脱。両戦艦とも、同日中に沈没した。

その後も激しい砲撃戦を繰り広げた両艦隊だったが、速度と練度に勝る連合艦隊が優位に戦いを進める。

19時10分、陽が沈んだこともあり「三笠」は砲撃を終了した。しかし夜陰に紛れた駆逐艦、水雷艇による肉薄攻撃は続行され、バルチック艦隊は更に戦艦2隻、装甲巡洋艦2隻を失うこととなった。

翌28日、日本の艦隊群は散り散りになったロシア艦を次々と降伏、自沈に追いこんだ。

最終的にはバルチック艦隊38隻中、戦艦6隻を含む19隻を撃沈。戦艦「オリョール」を含む7隻を捕獲ないしは拘留した。

バルチック艦隊の目的地であったウラジオストックにたどり着いたロシア艦は巡洋艦「アルマース」、駆逐艦「グローズヌイ」「ブラーヴイ」と輸送艦1隻の、合計4隻のみ。その他の艦は主に南シナ海方面へと逃走。ここに連合艦隊は、海戦史上まれに見る完全勝利をおさめたのである。

この戦いで戦艦三笠は旗艦として最前線で戦い抜き、死者8名、負傷者105名という損害を出しながらも、勝利をもたらす立役者となったのである。


▲鹵獲された戦艦「オリョール」。のちに改装され、帝国海軍に戦艦「岩見」として編入された。1922年(大正11年)9月1日に除籍。1923年7月に航空母艦「鳳翔」航空隊や基地航空隊の航空爆撃の標的艦として使用され、異国の地で艦歴を終えた。(画像はWikipediaより)

 

失われた三笠

勝利の栄光を掴み取り、凱旋した三笠だったが、彼女には思わぬ運命が待ち受けていた。

日露戦争の勝利の余韻も冷めやらぬ1905年(明治38年)9月11日。佐世保港内に停泊していた三笠は、突如として爆発事故を起こし、沈没してしまう。この事故による死者は339名。バルチック艦隊との戦闘とは比較にならないほどの惨劇となった。

かくして日本海でバルチック艦隊相手に勇戦し、日本に威光栄誉をもたらした戦艦三笠は、そのわずか3ヶ月半後、突如として波間の下に姿を消したのである。

(後編:「記念艦三笠が目にした時代」へと続く)


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